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カンパニーヒストリー

1.敏史と幸子の出会い

創業者である大隈敏史(おおくまとしちか)は、幻の酒「勇進」で名をはせた佐賀県の大きな造り酒屋に生まれました。
裕福な家庭で家業が忙しいこともあり、お手伝いさんに育てられていた敏史ですが、彼女のちょっとした不注意が元で足が不自由になってしまいました。そのせいで、中学卒業までにも渡る長い闘病生活を孤独に耐えながら送ることになりました。それでも、高校を卒業すると、弁護士を目指し上京し、法政大学に入りました。
東京学芸大学の学生であった幸子と敏史は、学生時代、勉強会で知り合い結婚しました。幸子は、敏史の足が不自由なことを気にもせず意思が強く自立した精神に惹かれ尊敬の念をいだいていたのです。「としちかちゃん」「ゆっこくん」と呼び合った新婚生活。二人の礎がここで築かれていきました。
幸子は小学校教師となり、やがて敏史は法律関係の大手出版社に勤めることになりました。二人の仕事が安定すると母一人、子一人であった幸子は、田舎から母(山中てい)を呼び寄せ川崎市の井田に3人の家を持ちました。
ところが、敏史が足が不自由だということだけで、大手出版社では色眼鏡で見られ正しく評価されないという現実がわかってしまったのです。

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2.パン屋開業から弁当屋へ

これをきっかけに敏史は、自分で商売を始めることにしたのです。そして、パン屋開業のアイデアは、小学校教師であった幸子の発案でした。
二人は中学校の渡り廊下で売るための惣菜パンを考えました。
パンを半分に切ってその中に、ハム・たまご・コロッケ・カツ・・・とさまざまな具材を入れて熱心に試作を繰り返しました。そして野菜サラダを入れたものとコロッケを入れたパンをセットにして「カロリーパン」と名づけ販売しました。カロリーパンは大ヒットし、パートさんを雇うまでになったのです。
しかし、中学校が夏休みに入ると、パンは全く売れなくなってしまいました。学校の先生の家や近所に回っても、学生以外にはパンは人気がなかったのです。
このとき、敏史は、出版社に勤めていた頃母・ていが作ってくれた「手作り弁当」のことを思い出しました。母の作る料理は、素朴であたたかく美味しいものでした。会社の仲間が是非、自分の分も作ってほしいと頼み込んできたこともあったのです。「そうだ!お弁当屋を始めよう!」
お弁当は売れに売れました。
また、注文を受けて一軒一軒回っていたのですが、お弁当のメニューと電話番号を書いたチラシを配ることを始めたところ、これが当りました。
配れば配るほど、ドンドン注文がくるようになったのです。それでも、チラシを印刷するための機械を買ったり印刷に出したりするほどの儲けにはまだ、まだでした。小学校勤めを続けていた幸子は、早朝に学校の謄写版を借りて他の先生が出勤する前にドキドキしながらチラシを印刷していました。
敏史は早朝から仕入れに、母・ていは調理の準備を、幸子は教師の傍ら、出勤時間ギリギリまでお弁当の仕込みを手伝っていました。特にスタイルが良く上品な容姿の幸子が通勤のバスに乗るため毎日、全速力で走っていく姿は評判になり、通勤バスの会社員達にファンも出来たほどでした。

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3.母・ていの教え「命に感謝する。」

商売は順調に拡大しておりました。それでも教師に生きがいを感じていた幸子は、長男、次男(現社長)を生んでも教師を続け、献立と営業の役割も分担するという何役をもこなし続けるスーパーウーマンでした。
幸子の母は、幸子が10歳のときに夫を亡くしてからずっと働き続けており、弁当屋を始めてからは調理に力を注いでくれていました。体力が弱くなっても律儀に掃除を一生懸命にする母でした。そんな母を見て育った幸子には、家族に囲まれてさえいれば、仕事が多いことはなんの苦でもなく喜びを感じることでもあったのです。
あるとき、母が弁当の殻や残飯の入ったごみ箱にいきなり手を突っ込みました。そして割り箸や殻を取り除いたのです。「残飯は、家畜のえさになるものだから。豚が割り箸でも食べてしまったら大変になるからね。まな板の上にのる生き物のおかげでわたし達は幸せに暮らしているんだから。」
生き物を食べるときに命に感謝する、「いただきます」という言葉にも通ずる母の教えは、このとき強く二人の心に刻まれたのでした。

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4.お客様の笑顔のために

経済の高度成長期に入り、会社は小さな弁当屋から産業給食、病院給食、学校給食の分野へと順調な発展を遂げました。
平成4年のある日、現社長 大隈 太嘉志は、専門誌「日経レストラン」を読んでいました。そこにはかながわサイエンスパークの職域レストランがバブル崩壊に伴い窮地にいたっているという記事が載っていました。学校でパン屋を始めることができたいきさつ、縁あって川崎市の土地を手に入れたことなど、川崎市に開業以来の恩をずっと秘めて感じていた太嘉志は、何とか川崎に恩返しをしたいと思い、このレストラン「ウィズ・ア・スマイル」の再建に手を挙げることにしたのです。
その後、平成7年4月より、その再建能力をかわれホテル・ケイエスピーの全館運営を開始しました。
長い間に培わされた当社の伝統である「まごころある調理・心のこもったサービス」があれば、困難を乗り越えていける、報われるんだという社員全員にとっても嬉しい経験となりました。
葉隠勇進のレールを敷いた大隈敏史、アイデアと実行力と深い愛を持って会社を支えてきた妻・幸子、そして黙々と調理に専念し皆に感謝の気持ちを教えた母・てい。3人の思いは、現在まで「葉隠勇進」の社風として脈々と受け継がれお客様に笑顔を提供し続けているのです。

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